ほとばしるもの

職場のブログに書くにはためらわれることをこちらに書き溜めていこうと思う。

 

シンガーソングライター / トラックメイカーの友人( Sayoko-daisyという名前で発表している)が、twitterで「親友が群像新人賞を受賞した!」、「本屋で探す」、「見つけた!」と書いていて。さっそく読んでみた。面白かった。一気に読んだ。

石倉真帆『そこどけあほが通るさかい』は、少女と母方の祖母との闘い、それを通じた少女の成長を描いた小説だ。まわりくどい表現をあえて多用している。だけど一気に読ませる。それはこの作家が持っている熱量、パワーだ。どうしてもこれを書きたい。表現したい。誰に読まれなくてもかまわない。そういう熱量。

以下、多少ネタばれになるかもしれないが

 

自身のアイディンティティを示すために、自らを刺し、血を流すシーン。その後、大便がすこーんと出た描写に度肝を抜かれた。

闘い血を流している状況では交感神経が優位になるから、自律神経がコントロールする排泄機能はうまく働かないはず。なのに大便があっさり出てしまった。

主人公にとって祖母からの抑圧は凄まじいプレッシャーだったのだろう。それを押しのけた瞬間、ざまーみろ!ではないけど、ほっとして、バトルモードが解除され排泄してしまったのではないかと思う。

 一周回ってとてもリアル。そのまま筆者の実体験ではないだろうが、過去に何か近い体験があったんだと思う。

 

蛇足だし石倉氏は知らないと思うが、イギリスの国民的ロックバンド、マニックストリートプリーチャーズの「For Real事件」を連想した。マニックスのギタリスト、リッチーは、彼らを誇大宣伝だと笑う記者に対して、自分たちの真剣さを示すために、ただそれだけのために、腕に「4REAL(本気だ)」と切り刻んだ。

どちらが上という話ではないが、マニックスの件になくて、石倉氏の小説にあるものは、自然とほとばしり溢れ出るユーモアではないかと思う。ユーモアは何より強い。生命力と直結するから。

 

 

 

SFマガジンも手に取った。

栗本薫没後10周年特集があって、彼女の夫が書いたエッセイが出版されてることを知る。

今岡清『世界でいちばん不幸で、いちばん幸福な少女』がそれだ。

栗本薫は80年代に一世を風靡したベストセラー作家で、世界最長のヒロイック・ファンタジー/群雄活劇『グイン・サーガ』や、永井豪手天童子』や諸星大二郎妖怪ハンター』といった怪奇漫画、クトゥルフ神話に想を得たと思われる『魔界水滸伝』シリーズ。名探偵、伊集院大介が活躍する推理物の3つが有名だが、加えて漫画家、萩尾望都竹宮恵子らと並んで、ボーイズ・ラブものの創始者としても知られている。

 

 

彼女の著作はある意味、ヘンリー・ダーガー非現実の王国で』と似た成立基盤を持っている。ヘンリーが様々な小説や写真をカット&ペーストしたように、彼女も世界中の名作小説、古典、現代の漫画から、ときにほぼそのまんまコピーしていた。

しかし、両者とも、コピーであっても、ときに引用元以上の輝きを得ていたはずだ。それはただの盗用ではなく、まず作者本人の内から湧き出る必然性、どうしても表現しなければならない衝動があったからだと思う。

彼女が80年代から90年代にかけて量産した(決してすべてが傑作とは言えないかもしれないが)諸作品がなければ、00年代以降のライトノベル / 同人誌カルチャーの隆盛はなかった、とは言わないまでも、その進歩は遅れていたはずだと思う。

 

 

 

ここまで書いてきて思ったが、今日、取り上げた作品に共通するのは、どうしても表現しないといけないという衝動。何があっても生き延びようとする執念かもしれない。

 

細野不二彦の漫画『ギャラリーフェイク』のあるエピソードで、贋作専門の画商、藤田は旧知の画家が描いた壁画(聖母像)を、描かれた教会ごと処分しようとする(すなわち破壊する)。

止めようとする友人に対して藤田は説明する。

 

その画家は、彼を裏切った妻を浮気相手(自分の弟子)と共に刺し殺した罪で服役していた。若き日の藤田は、画家が服役中に教会の天井に聖母像を描く、そのアシスタントをした。炎天下の暑さの中、画家は延々と描き続ける。

 

体がぶっ壊れるまで描き続けて完成した聖母像の顔は、はたして彼の妻に瓜二つだったという。だから藤田は言う。その画家も死んだ今、壁画(聖母像)も破壊してあげるべきなんだと。

 

これ以上うまく説明できないが、私が好むアートは、ジャンル(メインストリームかサブカルチャーかは問題ではない)問わず、こういった、ときに妄執ともとられかねない情念を宿したものしかない。